私は1965年(S40)に広告の世界に入りました。東京オリンピックの次の年で、初任給は2万1千円。アサヒペンタックスの35ミリ一眼レフカメラが3万5千円していました。日本の経済は貧しく、就職難の時代でした。

一方、社会には大きな変動を予告する兆候がいくつか現れていました。価格破壊、流通革命という言葉もそのひとつでした。個人が主役となる豊かな社会への胎動が始まっていたのでした。

私は16年間、雑誌系の老舗広告代理店で多くの事を学びました。今では師とも尊敬しているクライアントとの出会い、さらに素晴らしい友人、先輩方との知遇。生涯の宝物を得ました。しかし、あるときから、広告代理業の枠の中での生き方に虚しさ、ひ弱さを感ずるようになりました。依存型の”代理業”から主導型の”広告業”へ脱皮すべきではないかと考えはじめました。

クライアントの要求するサービス、また欲するであろうサービスについては、既存の広告代理業の概念を超えていても、積極的にチャレンジし、全うし、やがて企業として育てていこう…。

「日本廣業社」のネーミングと、その創設の意図と目的は、このような考え方から生まれました。

株式会社日本廣業社 代表取締役
田中 眞一